「河上伸男」の
長い男の物語
身長187cmの長い男のプロフィールや人柄を知っておいてもらえると、講座がより楽しくなるかと。
1950年、京都市に生まれました。
下鴨幼稚園、室町小学校、烏丸中学校、朱雀高校、同志社大学…と
ふりかえれば風雅な名前の学び舎で育てられました。
中学の頃は父と母のたわいもない夫婦喧嘩をエッセイにして京都新聞に載せてもらったり、
高校の頃は演劇でバーのママのヒモ役を熱演したり、
大学ではサングラスをかけてNHK大阪の若者トーク番組に出演したり。
23歳の頃、大阪の広告代理店萬年社の採用試験で生まれてはじめてコピーを書きました。
運動靴のキャッチコピーを思いつくままに7~8案。なんと合格してしまいます。
入社後に養成講座に通わせてもらい、晴れてコピーライターになりました。
この養成講座へ通うのが当時写真スタジオのアルバイトだった妻とのデートコースでした。
会社で彼女を初めて見てから6か月後には妻の実家へ結婚の申し込みに行きました。
でも45年以上も前なのでコピーライターなんてまだ市民権がありません。
当時は高価なコピー機の出始めた頃で、よく紙詰まりを起こしていました。
僕の名刺に「技術部」とありましたので紙詰まりを直す技術者だと思われていたようです。
妻の実家ではわかりにくい男と反対のようでしたが駆け落ちをほのめかしてゴールインです。
30歳前後から毎年、海外ロケに行くことになります。
パリ、ロンドン、ミラノ、ベネツィア、ニース、シドニー、ケアンズなどへ。
なんともすごいロケ地ですが、でも観光ではありません。
初めて日本人が来た!と地元新聞のトップに載るほどの辺鄙な場所ばかり。
しかも会社からは僕一人なので、かなりの現金を腹巻きに忍ばせて行くのです。
海外ではその日の撮影終わりにギャラをスタッフに渡します。
制作のディレクターながらフラン、ドル、リラの勘定を間違わないというのは結構なストレスでした。
しかも、ラテン気質の現地スタッフのいい加減さ、お昼に2時間もかける。
マンジャーレ(食べて)カンターレ(歌って)アモーレ(愛して)が一番、仕事はあとまわし。
仕事なんだぞ、これは!と最初の頃は腹を立てていましたが、だんだん居心地の良さを覚えます。
いい加減さがとても性に合うことに気づき、帰国後はいつも勤勉なふりをするのにひと苦労でした。
37歳で、13年間お世話になった萬年社を退社しました。
とても人間味のある会社で居心地がよいのですが、僕にはサラリーマン気質がどうも合わないので
広告の仕事制作所イーブン有限会社を創立し代表になりました。
会社のスローガンは〝ひとのよい広告をつくろう〟で、ひとのよさを売り物にしました。
NTT 西日本、大阪ガス、JR西日本、ワコール、マンダム、関西テレビ、サントリー、
グンゼ、モロゾフ、ロート製薬、セキスイハウス、読売新聞社、ワールドなどの
ひとの生活を楽しくする広告をずっと7~8人の少人数で制作してきました。
ある日突然、「ブログの文章の添削をしてくれませんか」と
テレビ番組〝ちちんぷいぷい〟から電話がかかってきたこともあります。
しかも6時間後の番組内のコーナー、というのにOKしてしまいます。
むずかしいことを面白がってしまう、これもラテン気質のなせる技でした。
メールで送られてきたブログを添削してアドバイスと一緒に返送したのが本番2時間前。
なのにONAIRではパネルが4枚作られ講師河上伸男氏のコメントが輝いています。
テレビってすごいなあ、なんだかいい加減だけど出来てしまう。
ゲストの南光さん、ピーコさんにも僕の添削が大好評。
「なるほど、これなら読みたくなる」と。ま、番組的にだと思いますが。
どんな人の書いた文章でも読んでいると、ステキになりそうなタネが見えてきます。
僕の身にどこでそんな力がついたのかは謎なのですが、
アドバイスすると文章がいい感じに変わって、書いた人の目の色も変わるのです。
それが楽しくて、いまもまだずっと教えることを続けているんだと思います。
テクニックで書く「うまい文章」より、心で書く「いい文章」……
僕のアドバイスのモットーです。
妻と犬と猫と、暮らすライター。
これが名著(笑い)「ぶんごころ」の本を書いた僕の肩書き。
エッセイのようにまとめた、人生が愉しくなる文章の本です。
タイトルがお気に入りで講座を「ぶんごころ塾」にしてしまいました。